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◆ドラしぶショートストーリー◆ 後編

 
        ◆ドラしぶショートストーリー◆
              後編 
             【心の話】

            ※注意事項※
 この小説は、pixiv内企画「Dragon Project of Pixiv」に登場する世界観と
 キャラクターを使わせて頂いた物語であり、
 企画に参加していない人には分かりにくい用語、表現が用いられています。
 また、世界観や登場するキャラクターの台詞や行動に、筆者である稲荷屋の考えが
 影響されており、世界の様子やキャラクターが、
 多少異なる可能性がございます。
 申し訳ありませんが、何か問題がございましたら、お手数お掛けしますが、
 ご一報を頂けます様、何卒よろしくお願い致します。


 ◆それでは、本編をお楽しみ下さい◆


 そこは、広大で……豊かな自然の恵みと、
 それに育まれた者達がその生を謳歌する、命に溢れた世界であった。
 多種多様な命が産まれ、死に、命を繋ぎ……
 それぞれの命を、その証を、精一杯世界に刻み付けていた。
 そんな世界の中でも、最も強い力を持ち……
 多様な姿と、多様な生で、世界を巡る命があった。

 あるものは翼持ち空を舞い、あるものはその足で大地を駆け、
 またあるものはヒレでもって海を進む。

 空に、陸に、海に。そして世界の至る所に……
 世界の隅々に、時には幻想の中にも姿を現す、大きな命。

        ――その名は、ドラゴン――

 そして、ドラゴンがその生を謳歌し、様々な命と交わりながら、
 その豊穣を、命を支えていく世界――『ドラシブ』
 
 これは、そんな世界の片隅で、偶然に起こった小さな出会いと……
 そこから始まる、一つの命を巡る、歩みの物語




 世界を形作るのは、幾つかの巨大な命の流れであり……
 そして、巨大な流れを生み出すのは、幾つもの小さな命の集まりと、
 その集まりの中で生まれる、様々な方向へと進む幾つもの流れ。
 これは、何も世界や命に限った話では無く……技術や、芸術……
 そして、人の集合体である街や社会、国家にも当てはまる事であると言えた。

 ドラシブの世界においても、それは例外では無く……
 三つの巨大国家を有する三大大陸、そこから切り離された島地部や、
 失われた技術が残る巨大な遺物、その他様々な地域に、
 独特の文化、社会を育む都市や、国家が存在していた。


 天を進み、上空から世界を見守る空中都市「フェルデ」
 数多の騎士を有し、武と騎士道を司る国「スシナ」
 海中に在り、水の流れと共に暮らす国「アクラリウス」
 自然と、森と共に生き、樹海に守られた国「アヴィオール」
 そして――広大な海に囲まれ、独自の文化を育む国「武陵」


 そんな、固有の流れを持つ都市や国の中の一つ『武陵』で、
 それは、静かに起こっていた。
 武陵の中枢……武陵独自の文化を象徴するかの様な、
 他国のそれとは異なる外観をした宮殿。
 そして、それを守る様に、宮殿の周囲、四方に配置された建物……
 武陵の剣であり、盾である四つの力
 ――青龍、白虎、朱雀、玄武――
 総称し、「四星」と呼ばれる部隊の隊舎。
 そのうちの一つ……暗殺や諜報といった、国の暗部を司る「白虎」隊の隊舎。
 その陰で、二つの影が向かい合っていた。

 双方とも、ドラグムであるということは共通していたが……
 一方は、赤く染められた武陵独自の服を纏い……
 そしてもう一方は、紺と白で構成された、武陵では珍しい、外国の服を纏っている。
 二つの影は黙ったまま……ただ静かに、その視線を交わしている。
「…………どうしても、やるってか?」
 不意に、赤い影が口を開いた。
 その声音は低く……何かを堪えるかの様な苦みが、端々に滲んでいる。
「……ああ」
 紺の影が、それに応じる。
 平坦な声音からは、意志の力が感じられず……
 何処か疲れたかの様な、空虚な音色を響かせる。
「大体の行動ルートは掴んだ……後は、待ち伏せ、追いつくだけだ」
「……分かってんのか? それで一番苦しむのは……
 後悔するのは、他でも無い、お前なんだぞ?」
 赤い影のその問いかけに、紺の影は僅かに沈黙し……
 しかし、はっきりと、言葉を紡ぐ。
「覚悟の上だ」
「…………そうか」
 赤い影が、重く、沈み込む様な溜め息を吐き……
 それを沈黙と共に見つめた紺の影が、踵を返そうとして、
 
 一撃が、赤の影から打ち放たれた。

 「刀」という、武陵特有の剣。
 それを用いた剣術の一つ「抜刀術」に似た構えから放たれたその拳は、
 半月の軌道を描きながら、獲物の一点を目指して疾駆する。
 狙うは顎。その先端を弾く様にして撃ち込まれた一撃は、
 相手の脳を直接揺さぶり……容易くその意識を刈り取る。
 果たして、放たれた一撃は標的へと迫り、

「……!!」
「それが正解だ」

 寸前で、紺色の影、その緑の手に受け止められた。

 瞬時に拳を退こうとするが……
 がっちりと掴みとられたそれは、まるで土に埋められたかの様に動かない。
「最早、自ら愚行を犯そうという我を止めるには、力で以て当たるしかない。
その判断は、どうしようもなく正しい…………だがな」
 その言葉は、何処か悲しげに呟かれ……
 瞬き程の時間も残さず、紺の影が赤の後ろに移動する。

「お前が、不意打ちとはいえ正面から撃ち合って……
我に、勝てる筈が無いだろう?」

 事態を認識するより速く、赤い影の足が払われる。
 容易く体勢を崩され、一瞬宙に浮く赤い影。
 身を振る様にして横手に回った紺の影が、その喉笛を掴み……
 回転する勢いも乗せて、そのまま地面に叩き付ける。

「が……っっ!?」
 爆ぜるかの様な鋭い音が響き……赤い影の口から、苦悶の声が漏れる。
 受け身も取れずに背中から叩き付けられた為、
 肺の空気が根こそぎになり……一瞬、息が詰まる。
 僅かに意識が寸断される。が、瞬時に自分の危険な状況を認識。
 咄嗟に、頭部を防御しようと腕を構え、
 

 鉄靴での踏みつけの一撃が、その腹部に叩き込まれた。


 赤い影の四肢が、尾が一瞬突っ張り、
 その口から、言葉にならない苦鳴が引き摺り出される。
 背が地面に着いている為、衝撃を逃すことが全く出来ず……
 結果、撃ち込まれた一撃、そこに込められた凶暴な衝撃の全てが、
 余すことなく腹部を、内臓を蹂躙する。
 突っ張った四肢から力が抜け、感覚が薄れる。
 意識が朦朧とし、腹部の熱と重みが、思考を掻き回す。

 だが……それでも。
「ぐっ…………が……あ”あああ!!」
 獅子吼を上げ、赤い影はその身を起こそうとして、


「終わりだ」


 頭部に走った衝撃と共に、その意識が闇に呑み込まれた。




「…………」
 沈黙した赤い影、その無抵抗な身体に処置を施した後……
 紺の影は、静かに空を見上げた。
 浮かんでいるのは月。僅かに欠けたその姿を無表情に眺めながら……
 紺の影は、ぽつりと呟く。
「……お前は、お前だけが、我の考えを知っていた。知っていて、見守っていてくれた」
 静けさの中、言葉が紡がれ、流れていく。
「……だからこそ、お前には話した。止めると、分かっていたからな。
兄妹が過ちを犯すと知れば……お前は、それを止める為に、必ず動く。
それが分かっていたからこそ、話した」
 声が僅かに跳ね、直ぐに沈む。目に、昏い光が宿る。
「……万が一にも、邪魔には入らせない。防がれる前に、潰す為に」
 基本的に、ドラグムはアダムよりも頑健である。
 だが、どれ程頑健であろうと、どれ程肉体を鍛えていようと……
 生物である以上、直接、脳と内臓の両方に強い衝撃、負荷を加えられれば……
 昏倒し、また起き上がっても、直ぐには動けない。
 後遺症などが残らない様、ある程度加減はされている様だが……
 それでも、二、三日は、動くことさえ困難だろう。
「……なぁ、ディアヴァリチア。きっとお前が……お前の考えの方が、正しいのだろうな」
 自嘲気味にそう呟くと、紺色の影は笑みを浮かべる。
「お前は……正しく、強い意志を、優しさを持っている。
だが……我は、もう、耐えられない…………耐えられなくなってしまったよ」
 諦観と、自嘲と、悲しさ。それらの感情が、笑みに滲む。
「……我は弱い。きっと、お前が忠告した様に……
後悔し、苦しむのだろうな……己の成した結果に」
 だが、と言葉を繋ぎ、
「それでも……我は、あの子を……あの子に背負わせてしまった悲しみを、
苦しみを、止める。止めてみせる」
 その言葉に応ずる様に、紺の影、その右手に仄かな光が灯り……
 緩やかな軌跡を、虚空に描く。
「恨むなとは言わない……言えた義理でも無いだろう」
 描き出すのは、転送の魔法陣。個人で扱える様に圧縮され、
 出力も抑えられたそれは、
 転送出来る距離も量も大したものでは無いが……
 それでも、人一人を運ぶには、十二分な力を持っていた。

「……それでは、な」

 呟かれた言葉は、冷たく、地面に落ち。
 瞬間、紺色の影が、音も無くその場から掻き消えた。
 残されたのは、倒れ伏す赤い影と、僅かな風の動き。
 物言わぬ月だけが、静かにそれを見守っていた。
 


 
 クルレイゴ大陸――クトゥルス。

 三大宗教の一つ……大地と力を司り、巨大な岩山に姿を変え、
 静かに民を見守っているという神竜「クラタイル」を崇拝する、
 クラタイル教の聖地である。

 都市内部は整備されているが……強い日差しや乾燥した大気、
 さらに、時折吹き荒れる砂嵐など、
 三大聖地で最も過酷な自然環境あり
 ――その過酷さと、ドラゴンを至上とする教義故に、
 クトゥルス近郊にはアダムが殆どおらず、
 ドラゴンやドラグムが主となって生活を営んでいる。

 また、都市の周辺に広がるのは砂漠や荒野であり……
 遮るものが無い為に吹き荒れる烈風や砂嵐、さらに植物が殆ど生息せず、
 水分が少ない為に起こる昼夜での気温の極端な日較差など……
 大地の厳しさを示すかの様な過酷な世界が、延々と広がっている。

 現在、空には月が浮かんでおり……のし掛かる様な黒さの空と、
 凍える様な低温と冷風が、砂漠を覆い尽くしていた。
 昼の熱気とは異なり、冷気でもって蝕んでくる夜の砂漠の中……
 小さな灯りを挟んで、二つの影が向き合っていた。
「……あの…………ごめんなさい…………」
 一つは、緑のコートに身を包んだ、
 粘体の身体を持つドラグルーンの少年――リーラのものであり、

「なに、気にするな。袖振り合うも何とやら、だ」
 もう一つは、黒白の陣羽織を羽織った、長身の影であった。

 背丈は、リーラよりも頭一つか、二つ分高い位であろうか。
 黒を基調とした独特の装飾を纏っているのは、やや大柄であるが、
 しかし、無駄な筋肉、余分な脂肪の一切が削ぎ落とされた、
 しなやか、という言葉を体現するかの様な、整った肉体。
 黒白に分けられた陣羽織を羽織り、腰に下げるのは一振りの黒刀。
 彫刻の様な彫りの深い顔立ちに、整えられた黒髪。
 一見すればアダムの様にも見えるが……永生を生きた者のみが得る、
 冷厳な知の光を宿したその金の瞳が、静かにそれを否定している。

 影――黒羽 御門――は、焚き火を眺めつつ、
 傍らの丸い急須から、湯気を上げる茶をコップに注ぎ……目前のリーラに差し出す。
「おぢさんからの忠告だが……次から旅行する時は、
特に旅先の天気について、良く調べておくべきだな?」
「ご…………ごめんなさい……」
 リーラは謝りながら、ぎこちない動きでコップを受け取り……
 僅かに揺れ、碧の光を反射する液体を眺め……ゆっくりと口を付ける。
 一口、二口。ちびちびとお茶
 ――武陵で飲まれている『緑茶』というお茶らしい――を口に含み、
 その熱量を得る度に、リーラの身体が……
 黒く濁り、乾燥した音を立てるその身体が潤い、透き通っていく。

 リーラの身体、その殆どを構成する粘体は、
 物理的、魔法的な衝撃への強い耐性や、
 水分を吸収しての増殖、吸熱能力等といった特性を持つが……
 半面、冷気に対して、極端かつ致命的に弱いという弱点がある。
 僅かな冷気であっても、晒され続ければ粘体が黒く濁り、
 やがて、粘性や水分を失って固まり……最終的には、崩壊する。

 リーラがクトゥルスに到着したのは昼であり、その時は問題無かったのだが……
 砂漠は、昼夜で大きな温度差があり、
 夜になると非常に低温になるという事実を知らなかった為……
 陽が陰るにつれて身体が固まりだし、
 遂には、身動きがとれなくなってしまったのだ。
 偶然通り掛かった御門が助けてくれたから良かったものの……
 運が悪ければ、そのまま砕けていても不思議はなかったのである。

「しかし、聖地を巡礼する旅とは……宗教に興味があるのかね?」
 御門の疑問の言葉に、リーラはふるふると首を振る。 
「……その…………神様に、旅することを……
許して下さいって……探す旅に、行くことを……」
「ふむ」
 リーラの言葉に、御門は僅かに瞑目して思考する。
 助けた時に気が付いたが、
 この少年はドラゴンウォントとして手配されている存在であり……
 ウォントが、人口密集地である聖地を訪れ、その上で祈りを捧げるということは、
 それなり以上の困難と、危険が伴う。
 それを承知の上で、聖地を訪れたということは……
「……神頼みかね? 探し物が見つかる様に」
「…………ううん」
 否定し、リーラは手元のコップに視線を落とすと……
 記憶をなぞるかの様に、ゆるゆると言葉を紡ぐ。
「神様は、探し物が、何処にあるかを……
教えてくれるって。だから、神様なんだって…………
けど、自分の探し物は、自分で、頑張って見つけないといけないって。
だから、神様には、自分で見つけるまで、
無事に旅をさせて下さいって、お祈りするんだって……
頼ってばかりじゃ、いけないって……」

「……ほぉ」

『神は自らを助くるものを助く』
 天上より見守る者は、ただ祈るだけの者を救いはしない。
 己が努力し、苦難に立ち向かう者にのみ、祝福という名の助力を与える。

 自ら努力する事を忘れてはならない。

 そんな内容が込められたこの言葉は、どの様な教えにも共通するもので……
 そこに込められた意味は普遍的かつ一般的で、
 日々の営みの中で見失われがちなものだが……
 しかし、重い。

「まだ若いのに殊勝なことだが……それは、誰かに教えられたのかね?」
「……姉さんが…………教えてくれた、の……」
 中々に教育熱心な姉がいるものだ……
 そう考え、ふと、自らの弟子、その不肖の姿を思い浮かべ……
 御門は、僅かに苦笑する。
「…………?」
「いや……何でも無い。しかし、聞く所によると、
三大聖地はもう回り終わった様だが……探し物は、見つかったかね?」
「…………」
 ふるふると首を横に振る姿に、御門は微笑ましさと、
 一抹の不安を感じつつ……ぼんやりと、浮かんだ考えを呟く。
「珍しい光景が見れるという意味でなら、フェルデや武陵だろうが……
大陸の端にある、古代都市の遺跡も良いかもしれんな?」

「……ネホラテ…………」

 ぽつりと、リーラが呟く。
「ん?」
「…………ネホラテに、もう一度、行こうと……思って……」
「ネホラテ?」
「…………」
 言ったきり、リーラは黙り込んでしまう。
 その様子に、先程とは異なる、僅かな変化を感じる。
「何か、理由でもあるのか?」
「…………ぅ」
 焚き火に照らされた白い顔。その頬が僅かに紅潮し、俯く。
 その様子に、御門は何となく理由を察し……
 自然と、にやにやとした笑みが、口の端に浮かんでしまう。
「まぁ、深くは聞くまい……いやいや、若いというのは良いものだ」
「…………?」
 意味が良く分かっていないらしいリーラの様子に苦笑しつつ……
 不意に、御門の瞳に、真剣な光が宿る。
「さて、そんなリーラ君に、おぢさんから一つの教えと、質問だ」
「…………?」
 その言葉に、リーラが視線を上げると、


 眼前に、抜き身の刀が突き付けられていた。


「え…………?」
 一体、どれ程の技量がそれを可能にするのか。
 微かな音も立てず……否、音を置き去りする
 視認不可の神速で抜き放たれた刀は、
 まるで、始めから其処に存在していたかの様に、
 その切っ先をリーラに向けている。

「お前は今、二つの戦いをしている。
一つは、生きる為。そしてもう一つは、生きる『意味』を見つける為に」

 先程までと異なり……御門の口調が、冷厳なものとなる。

「…………意味」
 応じる言葉に、御門は僅かに頷き……言葉を続ける。

「生きるとは、即ち戦い、争い、そして問う事。己の意志で困難に立ち向かい……
それに問いかけ、自らの答えを示す事」

 金眼に込められた光が、その鋭さを増す。

「今、お前は己の意志で歩み、問うことまでは出来ている。
だが、それだけでは、戦うことは、生きていくことは出来ない」

 御門の姿。アダムとさして変わらない筈のその姿に……
 一瞬、漆黒の巨体に金の炎眼を輝かせ、力強く両翼を広げた、ドラゴンの影が被る。

「お前に、掲げる意志は――困難に対して、己が叫ぶ『答え』はあるか?」

 問いかけの言葉。黒い翼は、静かに試す。その意志を、答えを。
「……ボクは――――」
 眼前に迫る刃。御門の放つ問い。
 その力に、身を包む冷徹な空気に押されながらも――
 しかし、リーラはゆっくりと、己の意志を、今、自分の中にある答えを示す。
 その言葉を、御門は静かに受け止め…………。


「…………及第点」

 
 音も無く、刀を鞘に収めた。


「きゅう、だい……?」
「取り敢えずは、合格ということだ。今は、そう答えられるだけで十分」
 そう応えながら、御門は空を見上げる。
「そこから先は、君が一人で……いや、もしくは……」
「…………?」
 呟く様な御門の言葉に、リーラは首を傾げる。
 パチパチと爆ぜる音を立てる焚き火の向こう……御門は静かに視線を戻し、
 何処か優しげな視線を、リーラに向ける。
「さて……今日はもう遅い。火の様子は俺が見ておくから、
その身体を休めてやる為にも、早く寝なさい」
 そう言って、御門はリーラに向かって毛布を放る。
 火の中に落ちてしまわぬ様、慌ててそれを受け止め……
 リーラは毛布で身体を包み込むと、横になろうとして……その前に、御門の方を向く。
「あ、あの…………」
「ん?」
 僅かに逡巡し……ゆっくりと、言葉を紡ぐ。

「あ…………ありが、とう……ござい、ます」

 その言葉に、一瞬沈黙し……御門は、淡い笑みを浮かべる。
「なに、気にするな。これは、おぢさんの趣味みたいなもんだ」
「…………?」
 その答えに、僅かに首を傾げつつ……リーラは、ゆっくりと横になる。
 見上げなくても目に飛び込んでくるのは、真っ黒な空に、白く輝く月。
 己以外、何者も居ない夜の空で、孤独な光を放つ星の姿。
「…………」
 月は……星一つも無く、ただ自分一人しか居ないこの空で、
 寂しいとは思わないのだろうか。
 そんな事を考えながら……ふと、自分が寂しさに震えていたあの時のことを……
 その時、差し伸べられた手のことを、暖かさを教えてくれた、
 優しい心の、少女のことを思い出す。
 …………あの人も、同じ月を、見上げているのかな……
 あの時から、微かに感じる様になった、小さな鼓動。
 その音に耳を傾けながら……リーラの意識は、眠りに沈んでいった。




 豊かな自然に覆われた、ネホラテの片隅。
 降り注ぐ斜陽の光を受け止め、
 その朱さに薄い緑の色合いを付け加える木立の群れの下を、
 モエコの小さな影が、静かに歩を進めていた。

 サフィルカなどとは異なり、自然の占める割合が多いネホラテにおいては、
 人工的に整備された道は数少なく……特に森林部においては、道というよりも、
 木々の間に出来た僅かな隙間、
 と言った方が正しい代物の方が、数多く存在していた。
 尤も、それが直ぐさま不便さに繋がるかと言うと、実際にはそうでも無く……
 人が多く通るルートには、住人や獣の足によって踏みしめられることで、
 自然に通りやすい道が形作られ、また、木立が作る天然の日除けや、
 降り積もった葉のクッションが足元を優しく受け止めてくれるなど、
 下手な人工の歩道より、快適に歩けるという場合も少なくない。

 モエコが歩いている道も、そんな道の一つであり……
 木立によって抑えられ、緩やかになったの日差しの下、
 足下に伝わってくるふかふかとした感触を楽しみながら、
 モエコは前へと進んでいた。
 足元に目を向ければ、慎ましげに咲く白い花や、木の実が芽を息吹かせ、
 新たな木立を育もうとしている様子が視界を彩る。
 そんな野花や木の実の姿に、モエコはふと、先日の出来事を……
 木の実拾いの最中に出会った、ドラグルーンの少年の事を思い出していた。

「……元気で、頑張ってるよね?」

 あの後……夜の帳が近づき、
 念の為ということでリーラに送られて家まで帰り着いた後……
 リーラは、このままネホラテを出発し、クトゥルスを目指すという事で、
 そのまま、家の前で別れたのであった。
 もう夜も近いし、夜道は危ないから、休んでいったらどうかと勧めたのだが……
 リーラは首を猛烈に振って拒否し、夜闇の中に姿を消してしまった。

「別に、何もしないのに……♪」

 あの時の少年の様子を……湯気を吹きかねない程に顔を真っ赤にし、
 慌ててその場を後にするその姿を思い出し、モエコの顔に笑みが浮かぶ。
 クトゥルスからネホラテまでには相当な距離があり……
 海こそ越えずに済むものの、大陸を一つ越えなければならない為……
 そこまでの旅がどれ程掛かるかは分からない。
 
 けれど、

「きっと、また会えるよね♪」

 別れ際……姿を隠す前に、旅に一区切りが着いたら、
 その話を聞かせに来てくれないかと、頼んだことを思い返す。
 その言葉に、僅かに逡巡し……しかし、確かにリーラは頷いた。
 なら、自分に出来るのはその言葉を信じて……
 何時か、また会える時を気長に待つこと。
 あの子が行くと言ったその場所は、遙かに遠い所にある……焦ってもしょうがない。

「それに、旅は男の子を育てるって言うし♪」

 今度会う時には……あの子も
 ――泣き虫で、恥ずかしがりで、でも、優しい――少しは、変わっているのだろうか。
 そんな事を考えつつ、頭にその姿を
 ……顔を真っ赤にして、俯いている姿を思い浮かべ…………
 クスクスと、笑みを零す。

 そんな事を考えていた所で……ふと、思考に空白が引っ掛かった。

「……あれ……?」

 引っ掛かりには『名前』というラベルが付いていた。
 思い出すのは、家へと向かう道行きでの、リーラと交わしたやりとり……
『可愛い名前だよね♪』と、そう言った時のことだ。
 少し赤くなった後、リーラは視線を逸らしながら、自分のこの名前は愛称で、
 別に、本当の名前がある、と応えたのだった。
 じゃぁ、本当の名前は何と言うのか。それが気になり尋ねてみると、
 リーラは妙に恥ずかしがり
 ――顔を赤くし、視線を外し、必死に話を逸らそうとした――
 何度か尋ね続けて、ようやく教えてくれたのだった。
 その時教えて貰った、リーラの本当の名前。
 それが何だったのか、
 引っ掛かってしまった空白を埋めようと意識を捻っていると――

「ルィーグラ、か」

 空白の答えが、前方から聞こえて来た。
 意識を向けると、木立の群れの傍らに、見慣れない人影が佇んでいた。

 背丈は自分よりも頭一つ、二つ分高い位だろうか。
 特徴的な薄緑色の肌を、胸元が膨らみ、
 緩やかな女性的な曲線を描く身体を、紺のワンピースと、それを覆う白のエプロン……
 メイドサーヴァントの着る、エプロンドレスに似たもので包み込んでいる。
 腰元から伸びるのは、緑の尾。足元を覆うのは、かかとの部分が空いた、
 甲冑にも似た鉄靴。空いたかかと部分から覗くのは、硬質な輝きを放つ緑の角。
 同様の輝きを放つ鱗が、手を覆っている。
 灰色の長髪を後ろで一つに束ね、第二の尾の様に伸ばしている。
 整えられた顔立ちに、赤く輝く瞳。
 そして、その瞳に漂う様に浮かんでいるのは、
 何処か疲れた様な、気怠げな雰囲気を感じさせる光。

(そういえば…………?)

 ふと、リーラとのやりとりを思い出す。
 確か、何人か兄姉が居ると言っていた……
 本名も知っているということは、彼女がその姉なのだろうか……?

 背中に緩く歪曲した鉄棒を背負ったその女性は、黙然と佇み……目の前の木、
 そこに出来た大きな傷跡に、検分するかの様に手を添えている。
 まるで噛み千切られたかの様な、しかし、縁の部分には溶けたかの様な跡が
 残る、特徴的な傷を持つその木に――モエコは、見覚えがあった。

(あれは……)

 脳裏をよぎるのは、過去の映像。
 錯乱状態のリーラが、感情のままに振り回した一撃……
 あの傷は、その時つけられたものだ。
「ここに辿り着いているという、その情報は正しかった」
 ぽつりと呟いて、その顔をゆっくりと顔を上げる。
 右目にアダム、左目にドラゴン。
 それぞれの特徴を色濃く宿したその瞳に、強い光が灯る。
「ならば、この都の何処かを目指しているという情報も正しいのだろう。
これだけ範囲が狭まれば、見つけるのはそう難しい話では無い……」
 剣呑な光を放つ昏い瞳。吐き出す様に、
 何かを縛るかの様に紡がれ、落とされる言葉。


「出会った時が――最後だ。その旅を、命を……終わらせてやる」
 硬質な響きが、地面に落ちて、音を立てた。


「え…………?」
 予想もしなかった言葉に、思わず声が漏れる。
 しまった、と思った時にはもう遅く……
 佇んでいた影の視線が、ゆっくりとこちらに向けられる。
 先程のまでの剣呑さは消えているが……
 気怠げな視線、その中に含まれた硬質な輝きがこちらを捉える。
 武器が向けられているわけでも、敵意を向けられているわけでも無い。
 しかし、その視線に……そこに宿る昏い光に見据えられて、
 どうしてか足が震え、声を出すことが、動くことが出来ない。

 視線の主は、そんなこちらの様子を興味なさ気に見ると……

「忘れろ」

 それだけ言って、踵を返す。
 その言葉……忘れろと言われた内容と、その意味する所。
 一瞬の空白の後、その事への理解が意識に走り……震えを、感情が押し返す。

「待って……!」

 叫びに、構うことなく遠ざかろうとする背中。
 そこに向かって、さらに言葉を投げ掛ける。

「あなたは……あの子の、リーラくんのお姉さんなんでしょう!? 
それなのに、どうしてそんな……!?」

 背中が、止まる。

「答えて!!」
 緩慢な動作でこちらに振り返り……気怠げに、こちらに視線を向ける。

「…………家庭の事情だ」
 ぼそりと、言葉を落とす。
 拒絶の言葉に、直ぐさま声を上げようとして……

 突如として眼前に現れた鉄棒、その無機質な威嚇に、言葉を塞がれる。

「……近くとも、否、近いからこそ、やらねばならぬことがある。
例え、その結果が、取り戻せぬものであっても、な」
「そんなこと……!!」

「どの道、アイツはウォントだ……顔も知らぬ誰かに手を掛けられる位ならば、
せめて知った顔に狩られるのが、救いというものだろう?」

「な……!?」
 発せられる言葉。その冷たさが、眼前の鉄塊を通して、静かに伝わってくる。
 気怠げな光を宿す瞳が、僅かに細められる。
「……名は?」
「…………モエコ」
「ふむ」
 答えると、眼前の相手は瞑目し……ゆるゆると、言葉を紡ぐ。
「我が名はシア。お前が何故、我のことを、アイツとの関係を知っているのかは、
どうでも良い。だが」
 再び開かれた目。そこに宿る冷徹な光を、意志を……
 視線に乗せて、こちらに突き付けてくる。
「真名を知っているという事は、アイツとの間に込み入った関わりがあるのだろう……
そうでなければ、その名を教える筈が無い」
 鋼の冷たさと、視線の冷たさ。二つの冷気に、剣呑な熱気が加えられ……
 歪んだ空気を立ち上らせる。

「知っているなら答えろ。アイツが……リーラが、この都の何処に向かっているかを。
素直に答えたならば……面倒な手段に訴えずに済む」

 ギシリ、と鋼の先端が音を立てた。




「兄さん!! しっかりしろ、兄さん!!」
 泥濘の闇に沈んでいた意識が、耳に届く声に、揺すぶられる振動に、
 ゆっくりと引き摺り上げられる。

 頭蓋の中身ががくがくと揺れる感覚。四肢が溶け落ちたかの様な倦怠感。
 その他大小様々な不調と不快感が全身を押さえ込んでおり……
 正直、指の一本を動かすのも難儀に感じられるのだが……
 それでも何とか目蓋を開き、声と振動の主を、外の世界を視界に捉える。
 目に飛び込んでくるのは、白と黒。
 差し込む様にして飛び込んでくる日差しの白と……
 それを隠す様に、自分の身体を揺さぶっている影。
 
 背丈は自分よりも頭一つ高い位か。鍛えられたがっしりとした体躯を、
 黒を基調として、烈火を思わせる模様が踊る服装に包み込んでいる。
 短く揃えられた黒髪に、彫りが深く、青年の若さを残す見慣れた顔立ち。
 その両眼に浮かぶのは、焦りと心配。

 自分を起こした青年――朱火――の姿を視界に捉えながら、
 倒れていた赤い影――出刃は、何とか身体を起こし、自分の状態を確認する。

 五感の方には――湧き上がる不快感と倦怠感を除けば――
 取り敢えず問題は無い様だ。
 三本の指を備えた両腕も、左足が欠けた両脚も、問題無く動き、感覚を返してくる。
 赤染めに、金の飾り模様を施した着流しの中、やや細身の身体の方にも、
 鉄靴での踏みつけを喰らったにも拘わらず、表面上の傷は無い。
 頭の方に意識をむけると、あれ程強い衝撃を加えられたにも拘わらず、
 張り出した二本の角も、折れたり欠けたりはしていない様だ。

 内部はともかく、外部には目立った損傷が
 ――所々、包帯やら治療を施した跡はあるが――無い事を確認し……
 出刃は、右にドラゴン、左にアダムの特徴を色濃く現した瞳を、朱火へ向ける。
「……起こしてくれたのは有り難ぇんだが、何で朱火が此処に居る?」
「それはこっちの台詞だ! 
昨日、『溜まった始末書を片付けるから手伝ってくれ』
って呼び出すから行ってみれば、部屋はもぬけの殻。
朝になっても戻った様子が無いから探してみれば、
こんな所でボロボロになって気絶してたのは、兄さんだろう!?」

 言われて、覗きやら騒ぎやらの始末書が溜まり過ぎていたので、
 その消化の手伝いを頼んだことを思い出す。
 尤も、朱火が来るよりも先にヤツが――シアが訪問して来て、
 そのまま伸されてしまったので、約束は果たせなかったわけだが。

 真逆、日頃の素行の悪さの結果が、こんな形で自分を救うことになるとは……
 その事に苦笑しつつ、出刃は軋む身体を、ゆっくりと起こす。

「…………悪ぃな、呼び出しておいて、すっぽかして……
野暮用が出来ちまったから、また今度頼めねぇか?」
「野暮用って……待て兄さん、何をする気だ?」
「ちっとばかし、ネホラテまでな……何、片づいたら直ぐ戻る」
「ネホラテって……無茶な!! 自分の状態が分かって無いのか!?」
 身を起こし、大丈夫、と返そうとして、

「…………ぐぶっっ」

 その場に倒れ込む様にして膝を着くと、耳障りな音と共に、
 胃の内容物を盛大にぶちまけた。

 えずき、堪え、吐き出す。それを何度か繰り替えず内に、
 内臓の絶叫は何とか収まったが……
 胃液までぶちまけられた嘔吐物の中には血痕が混じっており、
 深い損害が残っていることを示している。
 確認するのと同時、手足からふっと力が抜け、そのまま前のめりに倒れそうになる。
 朱火が慌てて身体を支えるが、もし少しでも遅れていれば、
 そのまま自分の吐瀉物の中に倒れ込んでいただろう。

「言わんこっちゃ無い!! 
そんな身体で無理したら、幾ら兄さんでも下手すると命に関わるぞ!? 
とにかく、一度医療班の所に……!!」

 支えられた身体から、顔から感じられる熱がみるみる引いていくのが分かる。
 おそらく、今の自分の顔色は蒼白になっているのだろう。
 そして、身体。
 先程の嘔吐で現実を思い出したかの様に、全身に鉛の重さと冷たさが、
 頭に激痛と、強烈な振動が訴えかけられてくる。
 状態は最悪。一人で歩くことも、ままならない。

 だが、それでも、

「今、此処で寝てるわけにはいかねぇんだよ……!!」

 止めなければならない者がいる。
 自分のすることが過ちと分かっていながら……
 それでも、罪を犯そうとする、家族が居る。
 それを止めることも出来ないで……
 己のことを、どうしてお前の兄だなどと言えるのか!!

 叫び、自分を支える朱火の襟首を掴む。
 其処に込められた力に、目に宿る執念じみた光に、朱火が僅かに怯む。

「…………頼む!! 
今直ぐネホラテに……今日中には辿り着かねぇと、間に合わねぇんだ!! 
だから、この場は行かせてくれ!!」

 身体に負わされたこの損傷は、
 恐らくは二、三日の間、こちらの動きを抑える為にしたものだろう……
 もしシアが本気であったのならば、踏みつけの一撃で、
 そのまま永遠に再起不能にされていただろう。
 あれは、そういう攻撃だった。

 つまり、シアにとっては、こちらの動きを二、三日封じれば十分ということであり……
 運良く短時間で目が覚めた今、この機会を逃すわけにはいかない。

 鬼気迫る出刃の様子に目を白黒させながらも、朱火は言葉を返す。
「そんなこと言っても……今武陵を出ても、ネホラテに辿り着くには相当掛かる!! 
高速飛行が出来るドラゴンの力を借りるならともかく、
用意も無いのに、今からじゃ…………!」
 言い争う二人の頭上に、ふっと黒い影が差す。

 見上げた視線の先に写るのは、二つの巨大な影。

「……兄さん!? どうしたんですか!?」
 一つは、全身を白と青の獣毛に包んだドラゴンであった。
 小動物の様な、くりくりとした赤い瞳を備えた頭部には、長い耳。
 長毛に覆われた小型の胴部に、ふわふわとした毛に包まれた四肢。
 背には、手の平の様な形をした巨大な羽根と、長い尾。
 ぬいぐるみにも似た外見をしたドラゴン――アイナ。

「何やら、取り込み中みたいです……?」
 もう一つは、つやつやと輝く、灰色の肌を持つドラゴンであった。
 羽根を持たず、代わりという様に、頭部から細身の体躯を抜け、大きな両腕に、
 さらにそこから足、尾にかけて展開する薄い皮膜。
 流線型を描く頭部には、黄色く輝く瞳に、刺青の様な独特の模様。
 まるで鏃の様なシルエット身体を描く身体を、
 羽ばたきもせず、ふよふよと宙に浮かせたドラゴン――アウロラ。


 二体のドラゴンが、空から地上を……朱火と出刃の姿を見つめていた。




「嫌」

「……ほぅ?」
「……あなたには、教えない」
 モエコのその言葉に、シアの瞳が僅かに細められる。
 眼前の少女――モエコの小さな身体は、僅かに震えており……
 その立ち振る舞い、所作を見る限り、武術、戦術の心得や、魔法などの技能を……
 こちらに対抗出来る程の戦力を備えている様には、見えない。

 しかし、僅かに涙を浮かべた大きな碧の瞳からは、強い光が感じられ……
 まるで、子竜を庇う親竜の様な、ひたむきな意志が感じられる。
「面倒な、話だ…………」
 微かにそう呟くと、モエコに聞こえない様に、小さく息を吐く。
「……同情か、それとも憐憫か?」
「え……?」
「安っぽい哀れみで己を危険に晒しても、得など無い、と言っている」
「なっ……!?」
 激昂する少女。その姿をじろりと睨みつつ、シアは言葉を続ける。
「アイツの風体か、それとも壊れかけた精神か……
何に情を得たのかは知らんが、半端な覚悟で情けを掛けることは、
下手に傷つけるよりも、残酷な結果を招きよせる……アイツにも、お前にも」
「ちが……!」
「第一」
 少女の言葉を遮り、気怠さを感じつつも、言葉を放る。

「その偽りの姿で感じられる世界が、意志が。本当におまえの、
アイツの心から出たもの、感じられたものだと、どうして言い切れる」

「…………ッッ!?」
「分からいでか。随分『変え慣れて』いる様だが……
それでも、生まれ持った肉体が持つ自然の動き、その最奥の『形』を消せはしない」
 身体は嘘を吐かない、というヤツだ……そう呟くと、シアはモエコを……
 震えを大きくする、その小さな姿を見下ろす。
「覚悟無き情に価値など無い。偽りの意志に意味など無い――
言え、娘。今言えば、手出しはしない」
 そう言って、シアが一歩を踏み出す。震えながら、モエコが一歩退く。

 その瞳に浮かぶのは、疑念。

 自分の言葉に……その意志に対して、迷いが湧き上がってくる。
 心の奥に仕舞い込んでいた気持ちを……自分が『自分』を偽っているという事実、
 その事に感じていた僅かな迷いを、後ろめたさを暴かれ……意志に、歪みが走る。
 確かな、確かだった筈の自分の気持ち。だが……抉り出された心が、
 それを突き刺す言葉の刃が、ぐらぐらと、容赦無く揺さぶってくる。

 自分は、あの子に対して、何を感じて、どうしてああしたのか?

 あの時――自分の中にあった気持ちが、本当の自分の心から生まれたものだと、
 どうして言い切れるのか?

 心の動揺を、その動揺を示す様に震える瞳を見詰めながら……シアは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「……偽りの上に得た何かは、それが剥がされた時、共に滑り落ちる。
物であれ、心であれ…………落ちるのも、容易い」

 冷たい目が、モエコに注がれる。


「偽りならば……迷いしか、後悔しか生まない、
茨の気持ちと縁ならば、無くして、忘れてしまえ。
その方が、お前の……アイツの、幸せになる」


「…………ぅ」
 その言葉に……心の奥で、声が上がる。
「……がう」
 声は、火となって燃え上がり、

「違う!!」

 震えを焼き払い、熱となって、口から迸る。

「忘れた方が……無くしてしまった方が良い出会いだなんて……
そんなこと無い……絶対に!!」

 浮かんでくるのは、あの時の表情。
 恐怖に、寒さに震え、黒い涙を零すあの顔。

「確かに、モエは……私は、あの子に隠してた。私を、私の本当を……」

 触れるという事に。誰もが知っている温もりに。
 ただ、誰かと居られるということに……嬉し涙を流した、あの顔。

「でも、あの時感じた想いは……
あの子を、苦しい気持ちから、悲しい気持ちから守るって、
受け止めるって想った気持ちは……守るって決めた涙は……心は!!
嘘なんかじゃない!!」

 泣いて、悲しんで、また泣いて。

「忘れた方が良いなんて……あの子の涙を、苦しさを……
嬉しさを、楽しさを……心を!!
無かったことにした方が良いなんて、そんなこと、絶対に言わせない!!」

 恥ずかしがって、おろおろして、笑って。

「偽物でも構わない……この心が、想いが偽物だって言うなら!!
私は、この心で、想いで!!
あなたの言う、本当を越えてみせる!! あの子を、守ってみせる!!」

 その意志は、その言葉は……そこにあった、心は。

 決して、斬り捨てられる様なものでは無かった。

 前を向けない、惨めなものでは無かった。

 捨ててしまった方が良いと、忘れた方が良いと言われる様なものでは……

 絶対に、無かった。

「ならば、答えろ……」

 シアが、静かに――しかし、強い意志を込めた声を上げる。

「崩れる身体を引き摺り、狩人に追われ、ただただ苦しみながら、
煉獄をさ迷うその意味を……
我等が傲慢故に、生き地獄に、
生きてこその地獄に叩き込まれた、命の意味を……!」

 今までの様な倦怠感は無く……其処にあるのは、血を吐く様な、後悔。

「ただ生ていて欲しいという、身勝手な願いの為に……
長い暗闇の中で、延々と責め苦に苛まれ続けたことに、
何の意味があったのかを!!」

 赤い瞳に映すのは、はるかな過去の情景。
 忘れようとして、しかし忘れることが許されない――
 忘れるわけにはいかない、罪と、胸の痛み。

「そこに意味など……価値などあるものか……!」


「違う!!」


 モエコは、叫んでいた。

「無意味なんかじゃない!! あの子の、リーラくんの命は……
生きて、前を向いて歩くことは…………絶対に!!」

 想いが、言葉になって迸る。 

「苦しさに俯くことも、泣いて、立ち止まることも、あるかもしれない……でも!」

 それでも……いや、そうだからこそ。

「苦しさを知ってる人は……悲しさを知ってる人は! 
その苦しさの、悲しさの分だけ、誰かの為に頑張って……
優しくすることが出来る!!」

 それは、野花の蕾の様に。
 雨の冷たさに、震える時を。
 風の強さに、倒れそうになる時を。
 悲しさに、苦しさに耐える時を越えてこそ……
 蕾は、見る者の心を癒す、美しい花を咲かせる。
  
「あの子は、頑張ってた……誰かの為に、私の為に、頑張ってくれた……! 
涙を流して、苦しんで、見失いそうになったこともあったけど……
それでも、前に進もうと、頑張ってた!!」

 気が付いたら、目から涙が零れていた……それでも、構わなかった。

「あの子の頑張る気持ちは……
誰かに優しくしようって、前に進もうっていう気持ちは!! 
無くしてしまって良いものなんかじゃない!!
私は、信じてる……あの子の、リーラくんのことを!! その心を!!」

 涙が零れようと、どれ程、格好悪くても……
 今、叫ばなければいけない、想いがあるから。

「それでも、倒れそうになった時は……涙で、俯いてしまう時は……!! 
その心を、支えてあげるって、涙を拭ってあげるって……
ずっと隣に、側にいるって決めた想いは……忘れない……絶対に!!」

「……我とて…………」
 眼前のシアの……その噛みしめた歯の奥から、声が漏れる。

「……そう……信じていなかったわけでは、ない…………!」

「え……?」
 それは、小さく、微かな声だった。
 だが……その声は、そこに含まれた想いは
 ――痛みに耐え、悔いる様な響きは――確かに、耳に届いた。

「…………言っても無駄だ、ということは分かった」

 何かを振り切るかの様に……シアの声音が、平坦なものになる。
 その赤い瞳に、剣呑な光が宿る。

「……口を割る手段など、それこそ幾らでもある……
己の判断を、後悔しろ…………!」

 ゆっくりと――先程までとは明らかに違う、明確な、冷たい敵意を乗せて――
 シアが、その手に鉄の棒を構えて、歩を進めてくる。

 だが……モエコは、退かなかった。
 退くわけには、いかなかった。
 今、此処で叫んだ想いは……その気持ちには、偽りなど無いのだから。
 だから……!!

 そして、シアの手が、そこに握られた鋼の一撃が振り下ろされ、


「…………!!」


 モエコの眼前――突如として立ち塞がった、
 薄紫色の、半透明の壁によって受け止められた。




「これって……」
 半ば呆然としながら、モエコは、眼前の壁に、ゆっくりと手を伸ばす。
 伝わってくるのは、柔らかな手応え。
 こちらの加えた力を確かに受け止め……僅かな弾力と、暖かさを返してくる。
 覚えがある。この壁に……壁を構成する、この柔らかさに。
「……リーラ…………くん……?」
 応じる様に、紫の壁がゆっくりと形を崩し……
 その向こうから、緑のコートに身を包んだ、小柄な影が姿を現す。
「……大丈夫……モエコさん……?」
 小柄な背中、蒼い長髪、緑の角。
 こちらに向けられ、僅かに覗く赤い瞳も……全てが、記憶の中にあるものと同じだった。
「う……うん」
「良かった…………」
 そう言って、薄く笑うと……こちらに背を向け、正面に……
 鉄の棒を構えた、シアと向き合う。
「…………」
「…………姉さん……」

 シアは鉄棒を構え直すと……いきなり、大上段から打ち下ろした。

「!!」
 咄嗟に腕を交差させて、それを受け止める。
 防ぎきろうとする粘体と、撃ち倒そうとする鋼。
 柔と剛の激突が、ギシギシと軋みの音を立て……双方を震わせる。
「く…………ぅ……!」
 柔が、跳ね上げる様にして剛を打ち払う。
 僅かにシアが体勢を崩し……そこに、リーラの足元から湧き出した粘体の触手が、
 その群れが突っ走る。
 無防備にさらけ出された胴へと疾駆する攻撃は……しかし、届かない。

 まるで、舞を舞うかの様に。
 前へ後ろへ、右へ左へ。
 時には近づき、時には離れ。大きく小さく、孤を直線を。
 流れる様なその動きは、無粋な紫の群れを全て背後に流し、

「脆い」
 終点の一撃で、一挙に叩き斬った。

「!?」
 伝わる感覚に――自分が、無理矢理切り分けられ、
 ごっそりと何処かに消える様な感覚――リーラが眉根を寄せる。
 見えるのは、二つの事実。
 一つは、先程は受け止められた筈の一撃が、いとも容易く自分の身体を断ち割った事実。
 もう一つは……分断された自分の身体、その切断面が黒く崩れ……
 シアの手に握られる鉄棒に、僅かに白い色合いが付与されている、事実。
「…………!」
 事実から思い当たる結論に、リーラの瞳に苦い色が宿る。
 シアの持つ鉄棒……鈍い輝きを放つその鉄身が、冷気を宿していた。
 恐らくは魔法によるもので……温度自体は、そこまででは無いだろうが……
 それでも、冷気に対して致命的なまでに脆いリーラにとっては、
 ただの一撃でも、危険な結果を招く。

 瞬間、冷気の刃を構えてシアが突進して来る。
 咄嗟に触手を、壁を乱立させてその行動を遮ろうとするが……
 あるいは躱され、あるいは斬り倒され……
 その進行を止めることが出来ない。
 瞬く程の間に
 ――斬り飛ばされた粘体が、黒く濁って固まり、
 地面に落ちるまでの、僅かな時間に――
 シアが、リーラの懐に入り込んだ。

 自分より頭二つは高い……
 何時も見上げていた相手が、自分の視線よりも低い場所にいる。
 その事実を、寒気とともに認識した瞬間、

 垂直に打ち上げられた一撃がリーラの顎に直撃し、
 その頭を、身体をかち上げた。

 小柄な身体が無防備に宙に浮かび……
 
 次いで放たれた突きの一閃が、その胸元を容赦なく貫通した。
 
 躊躇無く胸元を抉った一撃は、緑のコートの背から鈍い輝きを生やし
 そのまま、一息に横に振り抜かれる。
 走り抜けたその一撃によって、
 胸部を構成する粘体が、軌道上に位置していた腕が千切れ飛び……
 その衝撃に引き摺られる様に、リーラの体躯が吹き飛ばされる。
 湿った、鈍い音を立てて腕が落ち……
 次いで、小柄な身体が、重い音を立てて地面に叩き付けられ、
 そのまま、ごろりと転がる。

「…………」
 その様子を、無表情に眺めると……
 シアは、静かな足取りで、倒れ伏した小柄な影に歩み寄っていく。
 がくがくと揺れる視界の中で、輪郭も定まらない意識の中で…………
 リーラはぼんやりと、近付いてくるその姿を眺めていた。

(…………)

 どうして、自分はこの人に相対したのだろうか。
 自分では、どうにも出来ないことは、分かっていた。
 自分よりも賢くて、色々と知っていて……ずっと、強くて。
 間違えてばかりの自分を、それでも見守ってくれていた、あの人。
 あの日……家族の所から飛び出した、あの時。
 きっと、悲しませてしまった、あの人。

(…………)

 撃ち込まれた攻撃、その全てに、容赦が無かった。
 身体の大部分は切り離され、胸部は抉られ、片腕は千切られている。
 冷気で固められた身体は再生も出来ず……
 黒く濁った部分が、そこから広がるひび割れが。
 きしきしと音を立てて、身体を、意識を蝕む。

(……ボクは……)

 あの人が望んだのは、自分の……命を、奪うこと。
 この命が終わること。
 それは…………正しいのかもしれない。
 自分が、生きることを望むのは、間違っているのかもしれない。
 力の形で伝わってくる強い意志に、
 揺れる意識が……黒い疑念に手を引かれ、ゆっくりと、
 深く暗い何処かに、連れて行かれそうになる。

「…………!!」

(…………?)

 耳に、声が聞こえる。
 聞き覚えのある、声。

「……ラ……ん!!」

 それは、震えていて。
 それは、歪んでいて。

「……ーラく……!!」

 それは、暖かで。
 それは、優しくて。

「リーラくん……!!」

 涙に揺れる、その声は。
 自分を……自分の心を、優しく、引き上げてくれた。

「リーラくん……!! お願い、立って……逃げて……!!」

 思い出すのは、自分の心。曖昧なまま放っておいた、気持ち。

 どうして……あの人に立ち向かおうと思ったのか。
 届かないかもしれない、何も出来ないかもしれない。
 怖い気持ちが、怯える気持ちが……無かったわけでは無い。
 …………でも。

「…………ぐ、う、うぅぅぅぅ……!!」
 軋む身体を、無理矢理起き上がらせる。
 強引な動きに、身体が、意識が悲鳴を上げて……
 身体の崩落が、そのひび割れが、より深く、酷いものになる。
 構わない。今……動かないといけない。

 
『お前に、掲げる意志は――困難に対して、己が叫ぶ『答え』はあるか?』


 思い出すのは、あの言葉。あの時の、答え。
その答えが、正しかったのか、間違っていたのか。それは分からない。
(…………だけど!!)


『忘れないで……あなたの中にある心を。私の上げた暖かさを……
私に伝えてくれた、あなたの……リーラくんの、暖かさのことを』


 思い出す……今でも、色褪せること無く、心の中に残っている言葉を。
 この胸の……抉られた筈の胸の中で、
 それでも確かな暖かさを、鼓動を伝えてくる、その言葉を。
 その言葉をくれた、大切な人のことを。
 守りたいと。この心が、声を上げたことを。

『届かない』ではなく『届かせる』のだと。
『出来ない』ではなく『やる』のだと。

 大切な……本当に大切な、想いを。心を。
 その気持ちをくれた人の為に。
 今、自分に、生きて欲しいと、叫んでくれる人の為に……!

「…………」
 強引に身体を立ち上がらせたリーラを、シアは静かに眺めていた。
 既に身体の大部分は分断され……
 本体の方も、片腕は千切れ、胸も大きく抉れている。
 冷気に晒されたその身体は所々黒く濁り、
 きしきしと音を立てて、砕けた破片を地面に零している。
 だが……その足は震えておらず、目にも、強い光が宿っている。
(諦めてはいない、か)
 その事実に、僅かに苦い気持ちを感じつつ……
 シアは、ゆっくりと冷気を纏う鉄棒を構える。

 その動きに応じるかの様に……
 リーラは残された片腕で、コートの懐から道化の仮面を
 ――黒と白に塗り分けられた、隻眼の道化師を模った……
 聖夜祭で用いた、仮装用の物――
 取り出し、ゆっくりと被る。
「…………何のつもりだ」
「…………」
 黙して語らない小柄な影を見据えつつ……シアは、静かに構えを正す。

 確かに、冷気による攻撃は粘体に対しては有効だが……
 胸元を抉り取っても動いてくるということは、
 致命の一撃を与えるにはまだ届かないということであり
 ――下手をすれば、反撃を受ける可能性も出てくる。
 ならば、狙うは頭部だが……その頭部は、現在仮面に覆われている。

 恐らくは、防御のつもりだろう……
 頭部を隠した仮面は、緩やかな曲線を描いており……
 さして分厚いわけでも、頑丈なわけでも無いだろうが、
 そのまま撃ち込めば、打撃が流される可能性は否定出来ない。

 だが……分かっていれば、対処の仕様はある。


 一瞬の沈黙。そして、


「ッッ!!」
 両者が、同時に駆けだした。

 リーラの突進は予想外だったのか……シアの瞳に、僅かに動揺が走る。
 が、直ぐさま意識を切り替え、手元に……そこに握る、冷鉄の棒に集中させる。
 狙うは一箇所。黒と白に塗り分けられた仮面、その左側。
 黒い部分には、目などの装飾などが着いておらず、
 ピンポイントで打撃を叩き込めば、それは流されること無く……
 仮面を砕き、頭部に直撃する。

 そして、緑の影が間合いに――互いの速度も加味した距離に――入ったその瞬間、

「ふっ…………!!」
           
 裂帛の気合いと共に、シアが一撃が撃ち放った。
 円弧の軌跡を残し、冷鉄の刃は頭部へと疾走し……

 
 直撃。しかし、そのまま受け止められた。


(何……!?)
 硬直するシアの眼前で……一撃を受けた仮面が、音も無く砕ける。
 割れた仮面……その裏から覗くのは、

「眼帯…………!?」

 リーラの左目……虚ろな穴が空いた、その眼窩。
 その穴から湧き出た粘体が、金属の眼帯を押し上げ……
 仮面の裏から、必殺の一撃を受け止めていた。
 そのまま喰らっていれば、眼帯が金属で出来ていても、受けた衝撃が伝達し……
 頭の内部で炸裂、そこを破壊する。

 だが……衝撃を吸収出来る『何か』を間に挟み、
 それで受けてやれば、一撃を受け止めることが出来る。

(仮面は……打撃を誘導して、この防御を隠す為……!?)
 考えすぎの可能性も、勿論ある。
 だが……目の前には、一撃が受け止められているという事実が
 確かに存在していた。
 鈍い音を立てて金属の眼帯が零れ落ち……地面に当たり、砕ける。
 その音で、シアは初めて、自分が硬直して……
 無防備に、動きを止めているという事実に気が付いた。

 だが…………気付くのが、遅すぎた。

 連続で響く、硬質の何かが爆ぜる音。
 それが何かを確認するよりも先に……シアの身体を、
 腕を足を関節を、粘体の触手が押さえ込む。

「!?」
 視線を向けると、触手群は黒い塊から……リーラ本体から切り離され、
 活動を停止した筈の、身体の破片から伸びていた。
 目を凝らせば……黒い塊に、リーラから伸びる、薄く細い、
 粘体の糸が繋がっているのが分かる。

「真逆……」
 あの時……迫る触手を、立ち塞がる壁の群れを突破した時。
 切り離した残骸は、黒化し、固まったので放置していたが……
 実は、死んだ様に見せかけて、無事な部分が、中に潜んでいたとしたら?
 限界まで息を潜め……唯一の機会に備えていたのだとしたら?

 果たして策は成り……シアの動きは、がっちりと拘束されていた。
 視界に写るのは、残された片腕を振りかぶる、小柄な影。
 左目に黒洞を、右目に赤い輝きを宿すその顔が見え、眼前に迫る拳に……
 触れるだけで肉を抉り喰う一撃が、直撃するのを覚悟し、


 拳が、停止していた。


「……姉さん」

 ゆっくりと、腕を下げる。

「……姉さんが、兄さんが助けてくれたから、ボクは生きて……
また姉さんと会うことが出来た…………大切な人に、会うことが出来た」

 視界に写るのは、驚きを浮かべる姉の顔。

「苦しいことも……悲しいことも……」

 何時かの昔に、自分を慰めて、見守ってくれた、優しい人。

「嬉しいことも……楽しいことも……」

 あの時、後押ししてくれた言葉。勇気をくれた、大切な言葉。

「みんな……この命が、教えてくれた。大切なことを、教えてくれた」

 出来るわけが無かった。

「ボクは……まだ、生きたい。ボクの意味は……答えは、まだ分からないけど……
でも、その答えを、探して、見つけたい」

 大切な……大切な、あの人に。震える自分を救ってくれたあの人に。
 触れることが出来たのは、勇気の後押しがあったからなのだから。

「この命を、生きたい。
この世界で……見て、聞いて、感じて…………生きていたい。
この身体で…………この、自分で」

 大切な人に出会う前。この心を支えてくれていたのは……
 家族の……暖かな、思い出なのだから。

「生きていたい……あの人が生きている、この、世界で。
出来るなら、あの人と、一緒に…………生きたい」

 うっすらと霞む視界。その中に、小さな影を……
 優しくて、暖かな……大切な、あの人の姿を、捉える。
 その瞳から、大粒の涙が零れている様子に……申し訳ないな、と思う。

「だから……ありがとう。助けてくれて……ボクの命を……ボクを……
守って、くれて…………ボクに、ボクの命をくれて……」

 拘束している触手が黒化し、ボロボロと崩れ落ちる。
 切り離された身体を無理矢理動かした反動が。
 崩れつつある身体が……限界を、訴えてくる。
 でも……この言葉だけは、言わないと、いけない。
 頭上を……呆然とした表情を浮かべる姉を、ゆっくりと見上げ……


「…………ありがとう、姉さん」


 直後、リーラの身体から力が抜け……その場に膝をつく。
 ビシリと硬い音を立て、身体を走るひび割れが大きくなる。
 シアはその様子を……俯いたまま動かない……
 否、動けない弟の姿を、震える瞳で、じっと見詰め…………

「――あああああああああああああああああああああああ!!!!」

 鋼の凶器を、大きく振りかぶった。


 撃ち放たれる一撃。
 それは、先程までとは比べものにならない程歪み、遅いものであったが。
 それでも、動けない少年を……その身体を砕き、
 致命的な結果を招くのに十分なことは、はっきりと理解出来た。
 駆け出すが……しかし、自分の足では、間に合わない。
 一瞬先の光景……その予測の映像が、炎となって心を焼き、

「だめええええええええええええええええええ!!」


 漆黒の影が、鋼の一撃を掴み止めていた。


「!?」
 影は――朱火は、鋼の一閃を受け止めながら、視線を背後に……
 膝をつくリーラに向ける。
 動きを止めているが――しかし、聞こえる呼吸音や、僅かな動きから――
 取り敢えず、まだ大丈夫ではある様だ。

 その事実を確認すると、即座に前へと向き直り――
「悪く思うな……!」
 掴み止めていた鉄棒を握りつぶし、
 その勢いのまま、重い拳撃を、シアに向けて打ち出した。
 動揺がシアの意識を揺さぶるが……それでも、咄嗟に一撃を回避する。
 が、朱火はそれを始めから予想していたのか……
 迷い無い連撃の動作で、追撃の拳打を疾駆させる。
「……っ!!」
 シアは腕を組んで防御し、後方に飛び退くことで衝撃の大部分を受け流す。
 それでも、残る衝撃に腕が震え、跳躍以上に身が吹き飛ばされる。
 結果、木立の影にまで後退し……直ぐさま体勢を立て直そうとして、

「が……っ!?」

 上方からの一撃に、身体が大地に叩き付けられ、そのまま押さえ込まれた。

 不可視の一撃は――打撃でも、衝撃でも無かった。
 いきなり、身体の全てが鉛に置き換わったかの様な感覚。
 ギシギシと軋む身体を、それでも何とか立ち上がらせ――
 気配の感じられる、上方へと視線を向ける。
「……大人しくしてくださいね?」
 枝だと言わず葉と言わず、全てが下へと押し流されている木立。
 その上空に……アウロラの巨体が、音も無く浮かんでいた。

「え…………?」
 眼前の光景に……間の抜けた声が漏れる。
 呆然とした視線を、目の前のやりとりに向けるモエコの……
 その小さな頭に、手が乗せられた。

「……何とか、間に合ったか…………」
 僅かに擦れた……しかし、力の籠もった声。

「ええ……アウロラちゃんと、朱火さんのお陰ですね」
 応じるのは、優しげで……何処か、安堵したかの様な声。

 ああ、と擦れた声が応えて……頭に乗せられた手が、くしゃくしゃと髪を撫でてくる。
「…………ありがとな、お嬢ちゃん。わりぃがアイツを……
リーラを、どっか休める所に連れてってやってくれねぇか?」
「……お願い、出来る?」
 見上げた視界の中……笑顔を向けてくるのは、出刃と、アイナ。

 二つの笑顔に、モエコは小さく……しかしはっきりと頷き返すと、朱火の背後、
 俯いたまま動かないリーラの元に駆け寄る。
 その様子に、シアが動こうとして……

「邪魔は」「させませんよ?」

 朱火の構えに、頭上のアウロラの動きに阻まれ、止まる。
 モエコが、リーラを連れて行くのを横目に確認しながら……
 出刃が、ゆっくりと歩を進める。

「シア。お前の考えは、苦しみは……俺には、分からん」

 伺うような視線を向けてくる朱火の横を通り過ぎる。

「俺はお前じゃないからな……分かるわけがねぇ」

 上空のアウロラが作り出している、高重力圏。それが、音も無く解除され……
 さらに、出刃は近付いていく。

「だが……それは、お前も同じだろう? アイツの、リーラの考えは、心は……
お前には、その全部が、分かってたか?」

 木立の下、佇むシアの前に立つ。
 俯いたその表情は……伺う事が出来ない。

「分からねぇから、言葉を使う。そいつと話して、考えの欠片を、心の欠片を掴む。
そこから、そいつの心を想像し、思いやる」

 静かに、出刃は言葉を重ねる。


「お前が聞いた、アイツの言葉は……掴んだ、心の欠片は。
救い様がねぇものだったか? 
終わらせた方が、良いものだったか?」


 その言葉に、シアは僅かに身体を震わせ……ぽつりと、言葉を零す。

「……あの子が、我に向かって来たよ」

 ゆるゆると呟かれる言葉。

「震えてばかりで、怖がってばかりで……
あの時から、我等が地獄にあの子を放り込んだあの日から……
俯いて、下ばかり見ていたあの子が」

 その言葉に、出刃は己の左足に……シアの頭、その失われた角に、思いを馳せる。
 リーラの命を救う為、自分達の身体から作ったDテリアに……
 今も弟の身体に着けられ、その命を維持している義肢に。

「家を飛び出し……そのまま、ウォントとして手配され、追われる話を聞く度に……
あの子のことを、その苦しみを思うと、耐え難かった」

 思い出す。長兄を始め、三人の兄妹が姿を消した住居で……
 さらに、リーラまでも姿を消した、あの日のことを。
 何も言わず……ただ、じっと悲しみを堪えていた、妹の姿を。

「だから、終わらせようと思った。それが、あの子を生き存えさせた……
生き地獄に叩き込んだ我が出来る、せめてのことだと」

 淡々と、言葉を繋ぐ。

「恨まれているだろうと。呪われているだろうと……
そう、覚悟していた。その上に、さらに恨みを重ねようと、成し遂げると、決めた」

 自嘲気味な笑みが浮かび……僅かに、震える。

「ありがとう、と……そう言われたよ。守ってくれて、救ってくれて、ありがとうと……
命を奪おうとした、我に向かって……」

 零れるのは、小さな雫。

「なぁ…………あの子は、この世界で、幸せを見つけたのだろうか?
苦しみを乗り越える気持ちを、見つけられたのだろうか?」

 ぽたぽたと音を立てて、地面に染み込む、光。

「……我等が、あの子を助けたことは……
あの子にとって、救いに……祝福になったの、だろうか……?」
 
 その言葉に、出刃は優しげな笑みを浮かべる。

「……大丈夫だ。それに、そのことは、お前が一番分かってるだろう? 
アイツの言葉に、心の欠片に触れた、お前がな」

 その言葉に……シアは俯いたまま、静かに嗚咽を零す。
 やれやれと言ったふうに息を吐くと、出刃はシアの頭に軽く拳骨し……
 そのまま、くしゃくしゃと髪を撫でる。

「……ホントに、ガキの頃から変わらねぇな、お前は。
意地張っぱりで、泣き虫で……優しい妹」

 穏やかな笑みから紡がれたその言葉は……
 何処か優しい響きを持って、木立の中に響いていった。


「……どうやら、終わった様だな?」
 その声は、唐突に周囲に響き渡った。
 驚きに身を固くする全員の中央に……音も無く、虚空から影が降り立つ。
「……御門の旦那……?」
 呆然とした出刃の声に、御門はうむ、と頷いてみせる。
「色々と、関わった子等が動いてた様なのでな……見守らせて貰った」
 そう言って、視線をシアに……いつもの無表情に、
 しかし目元を僅かに赤らめた姿に、視線を向ける。
「……どーせなら、助けてくれるとか、止めてくれるとかしれくれても、
良かったんじゃねぇか…………?」
「試練は、自力で乗り越えなければ意味が無かろう? 
俺がするのは、あくまでその手助けだよ」

 出刃の言葉に、御門はきっぱりと応える。
 あまりの言い切りの良さに、出刃は二の句が言えず……
 溜め息を一つ吐くと、気を取り直すかの様に言葉を紡ぐ。
「まぁ、三人とも……あと、御門の旦那も、世話を掛けたな。
面倒に巻き込んじまってよ」

「俺は構いませんよ。兄さんに巻き込まれるのは、いつものことですし」
 そう言って、朱火は笑みを浮かべる。

「良く分からなかったけど……めでたしめでたしなら、良かったですよ」
 そう言って、宙に浮かぶアウロラが、ケラケラと笑う。

「家族に関わることですしね……当然ですよ」
 アイナが、にっこりと微笑む。

「……恩に、着る」
 そう言って、頭を下げる出刃。その姿を眺めつつ、御門が疑問を放つ。
「ところで出刃よ。お前随分とボロボロだが、身体の方は平気なのか?」
 その言葉に、フッと笑みを浮かべ、
「おいおい旦那。俺はこう見えても武陵白虎隊の一員だぜ? 
妹に一度や二度小突かれた位の傷、気合いで何とでも…………」
 そこまで言った所で、御門がツン、と腹部をつつく。


 瞬間、出刃の膝から力が抜け……その場に、パタリと倒れ込んだ。


「兄さああああああああああああああああああああああん!!??」
 ぎょっとした視線が向けられる中、
 出刃はビクビクと痙攣し、口からぶくぶくと泡を吹き始める。
「あー……やはりやせ我慢だったか。妙だとは思ったんだ」
「ちょ!? 御門さん……!? 
え、でも、アウロラさんに連れて来て貰う時、風とか全部防がれてたって……!?」

「えっと、そのことなのですけど」

 アイナにじゃれついていたアウロラの言葉に、
 全員の視線が集中する。

「ボク、止めた方が良いって言ったんですけど……良く見える様にって、
色々と動いてたから……もしかしたら、出刃さん、ちょっとだけ、
安全な範囲からずれてたかもしれないのです」

 そう言って、アウロラは自分の周りの空間を、ぐるっとなぞる。

「『こう見えても鍛えてるから、多少の風くらい平気』って
言ってたのですが……やっぱり、拙かったですか?
範囲からずれると、風が凄く吹いてきたりするのですけれど」

因みに、最初はアイナが出刃を抱えて飛んでいたのだが……
その時の風圧だけで、出刃がみるみる蒼白になっていったので、
慌ててアウロラに代わって運んで貰ったという経緯がある。

アウロラは空間を制御することが出来、飛行中は自分の周囲の
空間の風圧や熱などを完全に防ぐことが出来る為、
安全に出刃を運ぶことが出来るからである。


だが――自分から安全圏からずれてしまってはその意味も無く、
オマケに、離れすぎない様に加減をしていたとはいえ、
アイナとアウロラとでは、アウロラの方が圧倒的に速く飛ぶことが出来る。
すると、当然……受ける風圧は強くなる。


「ええええええええええええええええええええ!?」
「ふえ?」
 アイナの絶叫にアウロラが首を傾げる中、ビクビクと震える出刃が、
 口角泡を飛ばしながら、ひゅぅひゅぅと言葉を紡ぐ。
「わ……悪いな……兄弟。俺は……もう、駄目みてぇだ…………」
「何弱気なこと言ってるんだよ!? 兄さん、しっかりしろ!! 
まだ逝っちゃ駄目だ!!」
「ふ……自分の最後くれぇ、自分が一番…………」

「だって兄さん、今回のことで、また始末書の期限破ったろう!?」

『始末書?』と首を傾げるアイナとアウロラの二体を除き……
 周囲の空気が、ぴしりと音を立てる。


「確か、今回の分が百枚で……累計二百枚。
しかも、遅れた罰でそれが九割増しになってる筈!!」


 きゅ……!? という驚きの声が上がる中、出刃は静かに微笑み、
「……………………じゃあな、兄弟……!」
「兄さん!? 良い笑顔で逃げるなよ!!」
「後生……後生だから……!! 
頼むから……見逃してくれ、逝かせてくれぇぇぇぇぇぇぇえぇぇ!!」
「断るっっ!! 
今回逃したら、兄さんの代わりに、俺が始末書全部書かされるんだ!! 
それは御免被る!!!!」
「薄情者ぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおお!!!!」

 そんなやり取りを繰り広げる二人を見詰めながら、シアがぽつりと言葉を零す。
「……自業自得だ」
「いや、四分の一くらいは、お前の所為でもあると思うぞ?」
 御門の言葉に、シアは僅かに怯み……剣呑な視線を叩き付ける。
「…………何時か、必ず、殴る」
 その言葉に、御門はニヤニヤとした笑みを浮かべる。
「出来るものなら、な。どれだけかかるかね……?」
 火花の視線を向けるシアと、それを受け流す御門。

「アイナさん、何でこんなに騒がしいんです?」
 アウロラのその言葉に、アイナは静かに息を吐く。
「……みんな、色々あるのよ。色々…………」
「ほえ?」
「…………ううん、何でもない……」
 そう言って、アウロラの頭を優しく撫でる。
 嬉しそうに笑う姿を眺めつつ、アイナは静かに考える。

 あれだけ叫べているなら、兄は取り敢えず大丈夫だろう……
 始末書という物の方も、武陵に帰って、医務室という所に籠もりながらゆっくりやれば、
 きっと片付く……筈。
 ぼんやりと見上げた空には、いつの間にか、月。
 眼下の騒ぎを見下ろし……笑う様に輝く、巨大な円。


「助けてくれぇえええええええええええええええええええ!!!!」
「こ  と  わ  る  !!!!!!!!!!!」

 
 僅かに痛む頭を押さえつつ……アイナはぼんやりと、月を眺めていた。




 身体を包むのは、ほのかな温もりと、暖かさ。
 懐かしい様な、覚えがある様な……
 鼻をくすぐるその匂いに、ゆっくりと目を開くと……
 視界に飛び込んできたのは、白く輝く大きな月と、
「……リーラくん……!?」
 傍らに座り込んでいる、小さな、モエコの姿。

 リーラは、横になっている身体を起こそうとして……
 しかし、モエコの小さな手に遮られる。
「起きちゃ駄目だよ……!? ずっと、気を失ってたんだから……!」
 その言葉に、ぼんやりと記憶を遡り……
 最後の光景を、鋼の棒を振り上げる姉の姿を思い出す。
「姉さんは……? ボクは、モエコさんは……?」
「大丈夫よ……全部、大丈夫だから…………」

 あの後……モエコが、リーラを此処に――
 ひび割れていた身体を補う為に、最寄りの湖、その岸辺に――連れて来た後。
 いつの間にかやって来ていた御門を先頭に、あの場にいた皆がやって来て……
 無事に収まったということを、伝えたのであった。
 尤も……出刃はやせ我慢の上に無理をした為、
 即座に武陵に送り返されることとなり――
 朱火はその付き添い。
 シアは迷惑を掛けた罰ということでその世話に。
 アウロラは、アイナと一緒に皆を送り届けるということで……
 直ぐに、この場を発つということであった。
 説明を受けている間に、既に御門の姿は消えており……
 翼を広げ、飛び立とうとする二体のドラゴンに別れの挨拶をしていると、
 最後まで黙っていたシアが
「…………すまなかった」
 ぽつりと、そう呟いて。
 抱きかかえるアイナに苦笑されながら、夜空へと舞い上がっていった。

「……良かった…………」
 横になったまま、安心したかの様な笑みを浮かべるリーラ。
 アイナが置いていった毛布の下で、笑みを浮かべるその様子を見て……
 モエコの心に、ざわめきが走る。

「…………良く、無いよ……」

「…………え?」

「ちっとも、良く無いよ……」

 俯き震える、モエコの姿。
 その姿に、リーラは身体を起こそうとして……
 しかし、バランスを崩して、上手く起こせない。

「だって…………」
 僅かにずれた毛布の下……
 覗くのは、片腕が欠け、胸が大きく抉れた、自分の身体。
 治ってきているが、それでも僅かに残る、亀裂の跡。

「リーラくん……ボロボロだよ……?」
 顔に残る違和感から、眼帯が無くっていることが分かる。

「……斬られて、殴られて……」
 その言葉に、意識を自分から、目の前に向けると……

「死んじゃうかも、しれなかったん、だから…………!!」
 モエコの碧の瞳……大きなその瞳に、涙が溜まっていた。

「モエコ……さん……?」
「分かってるの!? リーラくん、あの時、死んでたかもしれなかったんだよ!?
あんなことして……!!」

 詰め寄ってくるモエコの、その勢いに押され、僅かに退く。

「無理して……無茶して……!! 腕が、飛んで……胸に、穴が空いて……!! 
倒れて、動かなくなって……!!」

「え、えと…………ボクは、その……腕が、無くても……穴が、空いても……
その……平気、だか『言い訳しない!!』…………ごめんなさい」

 怒っているらしいモエコの様子に、その迫力に押されながら…………
 しかし、何か、違和感を感じる。

「あんなことして……!! 
それで、死にそうになって!! 私のこと……!! 
周りのこと、考えないで……!!」

 その表情が歪み……大粒の涙が、ぽろぽろと零れる。

「……怖かった、んだよ……!?」

 ふと、思い至る。違和感の正体に。

「リーラくんが……死んじゃうかも、しれないって……」

 違和感というよりも……既視感に似た感情だった。

「守るって……受け止めるって言ったよ……!? 
リーラくんの全部を……でも、でも……!!」

 思い出すのは、何時かの自分。震えて、怯えていた、あの時。

「モエだって……私、だって……!! 怖くない、わけじゃ、無いんだよ……!? 
居なくなる、ことが……会えなくなる、ことが!!」

 無くしてしまうことが怖かった、自分。

「……あの時…………リーラくんが、死にそうに、なった時……
本当に、怖かったんだから…………!!」

 震える心を……確かに、感じたから。

「……えっ……と…………」
 嗚咽を、涙を零したまま動かない、小さな姿。
 バランスを取りながら、ゆっくりと片腕を伸ばし……一瞬、躊躇しながら……
 その身体を、出来るだけ優しく抱き寄せる。

 その動きに、モエコは一瞬びくりと震え……
 しかし、抵抗することなく、そのまま、リーラの胸元に顔を埋める。
 触れることで、直接感じられる、震えに、怯え。
 胸に伝わって、染み込んでくる、大粒の涙。
 その全てに、申し訳ない気持ちを感じながら……
 しかし何処か、温もりを……暖かみを、感じる。

「…………ごめんな、さい」

 その頭に、そっと手を乗せ……ゆっくりと撫でる。
 モエコは、僅かに身動ぎこそしたが……
 しかし、その動きを、頭の上の手を、黙って受け入れる。

「……ばか。リーラくんの、ばか…………」
「…………」

 繰り返される言葉を。それと一緒に、自分の胸元を叩く手を。
 されるがままに、静かに受け止める。
 まだ少し弱っているとはいえ……
 衝撃を吸収し、冷気以外には強い耐性を持つ筈の身体に……
 しかし、確かに、痛みを感じる。

 いや……正確には、身体ではなかった。
 心に。自分の、心に……疼く様な痛みを、感じる。

「…………ごめんな、さい……モエコさん……」
「…………」

 手の動きが、ゆっくりと止まる。
 その代わりという様に、自分の胸元を……
 殆どが粘体に変わってしまった身体の中で……
 僅かに残っている白い獣毛を、ぎゅっと掴まれる。

「…………」
「…………」

 この痛みを、覚えておこうと……忘れないでおこうと、そう思う。
 泣かせて、怖がらせてしまったことを。
 大切な人を、泣かせてしまったことを。

「……忘れ、ないで」
「…………?」

 ぽつりと零れた、言葉。

「……誰の心にも……怖いことが、あるってことを……」
 その声は、どこか、震えていて。

「あなたが……」
 小さくて、消えてしまいそうで。

「あなたが、傷ついたら……居なくなったら……悲しむ、人が、いる、ことを…………」
 でも…………

「お願い……」
 とても……暖かかった。

「…………うん」
 そう応えて……もう一度、ぎゅっと抱き締める。
 それに安心したのか……モエコは再び、嗚咽を零し始める。

 その小さな背中を
 ――何時かの昔、泣いていた自分を、慰めてくれた人の様に――
 優しく、とんとんと叩く。
 その悲しさが、少しでも和らぐ様に。
 その怖さが、少しでも薄れる様に。
 ただただ、それだけを思いながら……。



 
「…………うん」
 湖の縁にかがみ込んで、リーラはゆっくりと手を……
 湖の水を吸収して作り直した、腕の調子を確かめていた。

 極端な話……リーラの身体を構成する粘体は、
 例え一欠片になるまでにバラバラにされたとしても、
 水分さえあれば増殖し、復活出来る。
 それ故に、分断されでもしない限りは……
 腕の一本や二本、身体に空いた穴の一つや二つは、
 無視して行動することが出来るのだが……
「…………」
 腕を軽く回しつつ、元通りになった胸元を、身体全体の様子を確認し……
 取り敢えず、身体は大丈夫なんじゃないかな、と思う。

 尤も……コートは胸元から腕にかけて大きく裂け、
 嵌めていた眼帯も壊れてしまっているが……
 これらは、水につけても直るわけでは無いので、
 後で代わりの物を見つける必要があるのだろうけれど。

「…………」
 そんなことを考えつつ、リーラは視線を僅かに……こっそりと、背後に向ける。
 そこにはモエコの小さな姿があったが……
 しかし、普段の彼女とは様子が異なり、
 何処か思い詰めた様な、張り詰めた空気が、その周囲に漂っている。

 地面に腰掛け、俯いたままのその視線は……
 じっと地面を、その向こうの何処かを見据えている。

 あの後……涙を流すモエコを抱き締めて、慰めた後……
 モエコが、少しだけ離れていて欲しいと、そう言って来たのだった。
 ある程度休んで動ける様になったこともあり……
 水分を得て、身体を作り直す必要もあったので、
 その申し出に応じたのだが……いざ離れてみると、
 モエコの放つ普段とは異なる空気に、
 リーラは戻ることが出来なくなってしまっていた。

「…………怒ってる……のかな……」
 思い出すのは、先程のやりとり。
 ボロボロになっていた自分の様子に、涙を流していた、あの時。
 色々と無理と無茶をしたことを叱られたのだが……
 まだ、そのことで怒っているのだろうか?
「……うーん…………」
 謝るべきだ、とは思う。
 あの人を泣かせてしまったのは自分で、
 苦しい気持ちにさせてしまったのも、自分なのだから。
 悪いことをしたら、ちゃんと謝る様に。そう、教えられた。
 けれど……

「あぅ…………」
 どう謝ったら良いのかが、分からない。
 謝ることは……相手に悪いことをしたのなら、ごめんなさいをするのは、大切なこと。
 だけど…………謝る理由を、相手が本当に怒っている『理由』を知らないままに、
 ただ『ごめんなさい』をするのは……それは、違うと思う。
 理由を知って、その上で反省して、ごめんなさいをするのが……
 それが、本当に謝ることだと、そう思う。

 そして……自分が思っている『理由』は、自分が思っているだけで、違うこともある。
 他の理由で、怒ってることも、ある。
 だから、話を聞いて、その理由を教えて貰うのも、必要なのだが……

「…………ぅぅ……」
 モエコの放つ空気に、とてもでは無いが、話しかけることが出来ない。

 どうしたら良いのだろうか……
 治った両腕で膝を抱え、途方に暮れていると、

「…………リーラくん」

「ふぁっ!?」
 突然響いてきた声に、間の抜けた声を上げてしまう。
 わたわたと妙な動きをするリーラに……
 しかし、モエコは気にする様子も無く、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「リーラくんは……モエが、私が嘘を吐いてたら、どう思う……?」

「え…………?」
「……隠してる、本当があったら、どうする……?」
「…………?」
 分からない、といった様子のリーラを見詰めながら……
 モエコは、静かに意識を自分の中に向け……
 未だに木霊する、あの言葉を思い出す。


『その偽りの姿で感じられる世界が、意志が。本当におまえの、
アイツの心から出たもの、感じられたものだと、どうして言い切れる』

 
 あの時……シアに言われた、言葉。
 自分は、あの言葉に対して、確かに応えた……けど。
 陰が、不安が……消そうと思っても、消せない、
 黒い感情が……自分の中に残って、渦巻いていた。

 あの子は……リーラくんは、優しい……けど。
 自分が、自分を偽って接していたことを知ったら、どう思うだろうか?

 本当の……本当の、自分を見たら、どう思うだろうか?

 そのことへの恐怖が、不安が……心を締め付けて、音を立てる。
「モエコさん……?」
 不思議そうな声を上げるリーラの……その様子を見詰めながら、

「…………」
 周囲の様子を確認して……
 辺りに、誰も居ないことを確認してから、モエコはゆっくりと……
 自分を、『自分』に戻していく。

「!?」
 リーラが息を呑む音が聞こえるが……もう、止まらない。

 背丈が伸び、小さかった身体が、大きくなる。
 華奢な肩が一回り大きくなり、胸元が膨らみ、腰元にくびれが出来る。
 腕が、足が。細く小さく、人形の様だったそれが伸び……
 大人の、成熟した曲線を描く。
 身体を覆う羽毛、そのボリュームが増え……
 身を包む服が、体格に応じたものに変化する。
 顔立ちも、子どもの、人形の様だったそれから、大人のそれに変化し……
 唯一、変化しない碧の瞳が、揺れる。

 果たして……元の姿に戻ったモエコは、静かにリーラに――
 先程まで、殆ど同じ高さから見ていたが、今は、見下ろしている――視線を向ける。
「…………」
「ぇ…………」
 呆然とした様子のリーラ。その顔が見ていられず……モエコは、顔を俯かせる。

 やはり……見せない方が、良かったのだろうか。
 この姿を……本当の、自分を。
(どう……思ってるの、かな…………)
 怒っているだろうか……それとも……悲しんでいるだろうか。
 隠していたことを。黙っていたことを。
 嘘を……吐いていた、ことを。
 姿を、自分を偽って、側にいたことを……

「………………」
「…………」
 向かい合う二人。どちらもが声を発さず……ただ、沈黙が横たわる。
 その沈黙に……黙っているという事実に。
 知らず、身体が震えて……涙が、零れそうになる。

 重たく、居心地の悪い沈黙は……一つの音によって、破られた。

「…………っ!」
 それは、足音。
 特徴的な……粘質の音が混じったそれを響かせながら、
 リーラがゆっくりと、歩みを進めていく。
 その音に、モエコは僅かに身をすくませ……しかし、動けない。
 どうしてか、動くことが……顔を上げることさえ、出来ない。
 そして、その足音は、目の前で止まり……


 きゅっ……


 優しく、自分の手が、握られた。


「え…………?」
 その感触に、伝わる暖かさに。
 思わず顔を上げると……其処に、笑顔があった。

「……変わらない、よ?」
 眼前の少年は……リーラは、そう言って、静かに笑う。

「大きくても……小さくても……モエコさんは、モエコさん、だよ」
 ゆっくりと、ゆっくりと。

「優しくて……暖かくて…………」
 一つ一つ、言葉を、伝える想いを選びながら。

「…………その……かわいく、て…………きれい……で…………」
 時に、赤くなりながらも。

「……暖かい気持ちを……教えてくれた、人。
ボクを……助けてくれた…………とっても、大切な……本当に、大切な人」
 伝わる様に、届く様に。

「……大きくても、小さくても……心は……
ボクが、大好きな、モエコさんの心は……変わらないよ? 
伝わってくる、暖かさは……優しさは」
 ゆっくりと……しかし、しっかりと、言葉を、紡ぐ。

 手を握る力が、僅かに強くなる。

「変わらないよ……? モエコさんも……ボクの、気持ちも。
大切だって、想う気持ち。暖かくて、一緒に……居たいって……想う、気持ち」

 そして……リーラは背伸びをすると、こちらに……
 自分の顔に向かって、手を伸ばしてくる。
 一瞬躊躇い……しかし、ゆっくりと伸ばされた手は、目元を……
 そこに浮かんでいる涙を、優しく拭う。

 その動きに、柔らかさに。何処か、心地よいくすぐったさを感じる。

「…………泣かない、で……
モエコさんが、泣かないといけないこと、なんて……無いよ……?」

 その言葉に、仕草に。

「…………うん……」
 心が、音を立てる。震えて、羽根を広げる。
 縛り付けていた痛みが、ほどかれる。

「うん…………!」
 心を温めてくれる温もりを。目の前の、小さな優しさを。
 大切な……自分にとって、本当に大切な、心を。愛しさを。

 
 ぎゅっと……力一杯、抱き締めていた。

 
「…………!!?!!??」
 腕の中で、リーラが真っ赤になっているのが分かる。
 動揺の動きが、慌てる感情が、伝わってくる。

 ごめんね、と心の中で謝り……抱き締める力を、もっと強くする。
 今は、この暖かさを、全身で感じていたかった。
 柔らかくて、優しくて、愛しい想いを。
 胸に伝わる鼓動を。あなたが、此処に居るということを。
 ただ、あなただけを。本当に大切なあなたの、その全てを。
 何時かの想い。その約束を思い出しながら…………
 その小柄な身体を、力一杯、抱き締めていた。




「♪~ ♪~~ ♪ ~~♪ ♪ ~~♪ ~♪」
「…………あぅ…………」
 湖畔に、二つの影が、並んで佇んでいた。
 一つはモエコ――あの後、もう一度変身しなおしたらしい――
 であり、その隣に座っているのは、リーラである。

 モエコは随分ご機嫌な様子で、落ち着いているのに対し……
 リーラはきょろきょろと視線をさ迷わせ、もぞもぞと動き、落ち着かない。
 その様子を――時折、こちらに視線を向けては、
 また直ぐ視線を逸らし、もじもじと指を動かしている様子を――
 眺めて、くすくすと笑みを浮かべつつ……モエコは、ゆるゆると歌を紡いでいた。

「…………ぅぅ」
 リーラが、少し離れようとすれば、

「~~♪ ♪ ~♪」
 モエコが、一歩近付く。

「…………あぅぅぅ」
「~~♪ ~♪ ~~♪ ♪」
 切っ掛けは、何だったのだろうか。
 助けるために、飛び込んだことか。受け止めて、抱き締めたことか。
 それとも――強く、抱き締められたことか。
 何が始まりだったのか――それは、分からない。

 だけど――
「…………」
 ちらりと視線を横に向け、隣のモエコの様子を窺う。
 人形の様に整った、綺麗な顔に……そこに浮かぶ、幸せそうな笑みに。
 華奢で、柔らかそうな身体に……
 肩が触れ合う程の近くから伝わってくる、その温もりに、気配に。
 モエコに、意識を向ける度に……心が見て、感じる度に……
 何処かから、強い熱が生まれる。顔が熱くなって、耳に鼓動が、大きく響く。

 それが、よく、分からなくて。どうしてか、とても恥ずかしくて……
 少しだけ、怖くて。心地よい気持ちも、あって。
 どうしてか、近付けなくて……でも、離れたくなくて。側に居たくて。
 ぐるぐると渦を巻く気持ちが、意識を、掻き回す。

「……ねぇ、リーラくん?」
「…………っっ!?」
 突然の言葉に、思わず飛び上がりそうになる。
 そんな様子に、僅かに微笑んでから……モエコは、疑問を紡ぐ。
「あのね……モエ、前にリーラくんの名前……
本当の名前を、教えて貰ったでしょう……?」
「……う…………うん……」
「それでね…………」

 モエコは、リーラの瞳を見ながら……赤くなったその顔を見詰めながら、言葉を繋ぐ。

「……シアさんにね、本当の名前――
真名は、普通は教えないって……そう、言われたんだけど……?」

「っっ!?」
 その疑問に、モエコの視界の中……
 リーラの顔が、さらに……湯気を吹きかねない程に、赤くなる。
「……リーラくん…………?」
「…………う……ぅぅぅ…………」
 モエコの不思議そうな声を聞きながら……
 リーラは、がくがくと揺れる意識で、必死に考えていた。

 本当の名前を……真名を、教える。その意味は、分かっている。
 大切なことだから、良く覚えておく様にと……そう、教えられた。
 あの時……自分は、この人なら……モエコなら大丈夫だと。
 教えても、構わないと……そう心から思ったから……だから、真名を教えた。

 だけど……何故か、今。
 それを……その意味を教えるのが、酷く……恥ずかしくて、怖かった。

 だが…………
「…………」
「…………う、うぅ……」
 こちらを見詰めてくる、モエコの瞳。
 そこに宿る、真剣な光に…………震えながら、言葉を紡ぐ。

「あ…………の、ね……本当の、名前を……教える、のは……」
「うん……」
「…………その…………ね……」
 無意識のうちに、息を大きく吸い……ゆっくりと、吐く。


「相手を……教えた、人を……心から……信じてるって……証。
その人を……ずっと、想って……忘れない。
この、心は……あなたの、あなただけに、って……そういう、意味…………」
 小さな……震える、声が。ゆっくりと……響いた。


「…………」
「……………………」
 沈黙が、辺りを包む。

 モエコも、リーラも…………一言も発せず、ただ静かに、佇んでいる。
 リーラは、ちらりと横を――
 押し黙ったまま、じっと前を、湖を見詰めているモエコの様子を確認して――
 口には出さずに、思う。

(やっぱり…………)
 言わない方が、良かったのだろうか。
 言わずに、黙っていた方が……誤魔化していた方が……
(でも……)
 どうしてか……それは、選べなかった。
 自分の中の、何処かから……それを拒否する、声が聞こえた。
 だから……正直に、答えて……でも…………

「…………」
「………………」
 耳が痛くなる様な沈黙が、どれだけ続いただろうか。
 ゆっくりと、身体を動かし……モエコが、リーラに向き直った。

「…………ねぇ、リーラくん……?」
 その言葉に、リーラは僅かに震え……視線を、モエコに向ける。
「モエは……私はね………………」
 小さな唇が、言葉を紡ぐ。


「リーラくんのことを……大切に、本当に、大切に想ってるよ」


 静かに、流れる言葉。

「……どんなに、離れてても。どれだけ、会えなくても……
想いは、心は……あなたの……リーラくんの側にいる」
 震えもなく、迷いも無く。響く言葉が、伝わってくる。

「忘れないで……あなたは、一人じゃないことを……
あなたを、想う心が……何時でも、側にいることを…………」
 だけど……何故か……

「…………忘れないで……モエは、私は…………」
 その言葉に……伝わる響きに。

「ずっと……待ってるからね?」
 悲しい気持ちを、感じたから。
 
 
「……そろそろ、戻ろっか?」
 そう言って、モエコはひょいっと腰を浮かせ……不意に、その小さな手が掴まれる。
「……?」
 碧の瞳が、自分を掴む手に……その主である、リーラに向けられる。
「…………」
 手の中の温度を感じながら、向けられる視線を感じながら。
 俯いたまま……リーラが、その小柄な影が、ゆっくりと立ち上がる。

「…………リーラくん?」
「…………は……」
 自分がしようとしている事が、どういう事か。
 その意味する所が、何なのか。
 その答えに……心が、身体が震える。

「…………?」
「……ク、は……」
 思い過ごしで……思い込みかも知れない。間違っているかもしれない。
 でも…………それでも。
 あの言葉に……姿に、悲しさを、感じたから。

「ボク、は……」
 心が、叫んだから。悲しませないと決めた、あの想いを。
 一緒に居たいと……そう想う、気持ちを。その源の……鼓動を。
 強く、心に感じたから。

「…………」
「……ボク、は…………」
 顔を、上げる。
 間近に迫る、モエコの顔。その碧の瞳に映る、自分の姿。
 赤く染まった顔が、意志の光を宿す、瞳が。確かに、其処に見えて。
 
 そして、二つの影が、ゆっくりと近付き……


 コッ


「にゃ!?」
「あぅっ!?」


 一瞬重なった影が、軽く、硬い音を立てて、離れた。


「…………あぅぅ」
 口元を……じんじんと痛む歯を押さえる。

 一体、何が起こったのか……
 一杯一杯で、直前のことは良く覚えていないけれど……
 それでも、頭に響いた音と、歯に響く痛みから……大体のことは、分かる。

 取り敢えず、はっきりと分かるのは……自分が、失敗したということ。
 その事実に、無意識に肩が落ち……涙が、零れそうになる。

「……ぅぅ」
 赤い瞳に涙を溜め……肩を落として、しょんぼりと項垂れる。
 モエコは、自分の口元を押さえながら、そんなリーラの姿を見て……

「……ふふ…………」
 優しく……穏やかな、笑みを浮かべる。
 そして、ゆっくりと手を伸ばし……赤い隻眼に浮かぶ大粒の涙を、そっと拭い取る。

「リーラくん……泣かないで……?」
「ぅ…………」

 そのまま、俯いた頬に、顎に指を這わせ……そっと、顔を上向かせる。

「大丈夫……」

 そのまま、怯える様なその表情に、ゆっくりと顔を近づけて――

「え……?」


 疑問の声を上げる唇に、自分のそれを…………優しく、重ねた。


「…………!?」
 リーラの顔が、一瞬で真っ赤になり……疑問の声が上がりそうになる。

 だが……モエコに、唇で口を塞がれている今……
 声は外に漏れず……そのまま、口腔内で掻き消える。
 視界を埋めるのは……瞳を閉じ、僅かに頬を染めた、モエコの顔。

 唇から伝わってくるのは……柔らかくて、暖かな、ぷにっとした感覚。
 伝わる二つの事実に、鼓動が強く跳ね上がり……熱が、頬に集まる。
 トクトクと響く鼓動が……包み込む様な暖かさが、優しさが。
 触れ合った唇から、じんわりと伝わってくる。

「――――っは……」
「――――ぁぅ……」

 僅かに湿った音を立てて、ゆっくりと唇が離れていく。
 リーラが、その光景を呆けた様子で眺めていると……
 頬を赤く染めたモエコが、己の唇に指を当ててて、うっすらと微笑む。

「…………教えて、くれる?」
 優しげな、表情。その、言葉。

「……さっきの……言葉の、続き…………」

 リーラは、一瞬沈黙した後、小さく……しかし、はっきりと頷き……
「……ボク……は…………」

 大事な言葉を、慎重に、慎重に選ぶ。


「……モエコ、さんの…………こと、が…………好き……です」
 ゆっくりと……しかし、はっきりと、想いを、告げた。


 その言葉に、モエコは優しく微笑むと、


「…………私も、大好き……だよ……♪」


 リーラの身体を、優しく抱き締めた。


 触れ合う想いに、心に。伝わる柔らかさに、暖かさに。
 大きく脈打つ鼓動を感じながら……リーラも、ぎゅっと、抱き返す。

「…………一緒だよ?」

 優しい笑顔を浮かべる、大切な人。

「ずっと……ずぅっと…………一緒に……側に居るからね……」

 花が綻ぶ様な、その笑みに。

「…………うん。ずっと……隣に……居るよ……」
 確かな想いを、言葉に乗せて。




 一度目の失敗。二度目の答え。
 そして……三度目の絆を、どちらともなく求めて。
 音も無く――二つの影が、重なった。




 ゆるゆると輝く、丸い月が。二つから一つになり、寄り添う影を。
 優しく、静かに見守っていた。

    
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